お問い合わせ・資料請求はこちらお問い合わせ・資料請求はこちら

ブログ

創業のキッカケ・動機(1/3)

始まりは祖父の他界…

ご覧いただきありがとうございます。

今回のブログは、長くなりそうで躊躇していた、「創業のキッカケ・動機」について書いていきます。
※大きく3つの段階がありますので、ブログの投稿も3回に分けます

1回目(全3回)は、約30年前に他界した”祖父との思い出”を振り返ります。

じいちゃん

三人きょうだいの末っ子である私は、家族に甘やかされて幼少期を過ごしました。

同居をしていた祖父母には、「最後の孫(末孫)」だったこともあってかとても可愛がられ、一緒に過ごす時間もたくさんありました。

そのため、物心がついた頃から現在に至るまでも、私は祖父母のことが大好きです。

 

祖父との思い出

祖父は幼少期の私を可愛がり、老人会の集まりやゲートボールの練習などによく連れて行ってくれました。

そのお陰もあってか、当時の私には、外で遊び回っていると親しげに話かけてくださる様な、ご年配の友だち(正確には祖父の友人/知人)がたくさんいました。

祖父は仕事を引退した後、家から徒歩数分の所にある畑で、カボチャや芋類・トウモロコシなどを育てる畑仕事に精を出していました。

農作業に夢中になると、祖父が夕食どきになっても帰ってこないという事が度々あり、そんな時には私が畑までひとっ走りし、祖父に帰宅を促す役目を任されたものでした。

夕暮れ時で祖父の姿が見えない畑に向かって、「おじいちゃんご飯だよー!」と私が大声で呼びかけると、祖父がヒョコッと顔を出し、腰を伸ばしながら「おー迎えに来たのか!」と応えてくれます。

祖父が後片付けを済ませると、私は収穫した野菜や農具と一緒にリアカーの荷台によく乗せられました(自分から乗っていたのかも)。祖父は口笛を吹いたり・演歌を口ずさみながらそのリアカーを引っ張り、私はガタゴト揺られながらお腹をすかせて家路につきます。

今思い返してみると、昭和感のあるシュールな光景だっただろうと笑ってしまいますが、確かにそこには、祖父と私のちょっとした幸せな日常があった様に思います。

祖父が天国へ旅立つ

祖父は、私が小学校3年生の頃に他界しました。

その頃の私には、家族が居なくなる…ということがよくわかりませんでした。

葬儀には、親戚がたくさん集まってガヤガヤしているので、「みんなに遊んでもらって何だか楽しいな!」とすら思っていました。

告別式も終わりに近づくと、親族が(出棺時の)お別れの挨拶として、生前の祖父のことを話し出しました。

話が中盤に差し掛かった頃でしょうか、「こうじくん(私)が産まれた時に、○○さん(祖父)はとても嬉しそうでした…」という思い出話が耳に入ってきて、急に私の視界はぼやけていきました。

小学生にもなり、いつもどろんこ・わんぱくに過ごす自分が、気づけば人前で泣いていることに、最初はとにかくビックリしました。

「何で涙が出ているんだろう」「たくさんの人に見られて恥ずかしい」「涙を止めたい!!」

そんなことを思えば思うほど、涙は止まらず出続け、最後はワーワーと大声を出して泣きわめいてしまいました。

自分が経験したことがない大量の涙は、小学生の私の、半袖でむき出し腕では拭いきれませんでした。

 

こうして、 祖父の葬儀で大泣きしてしまったことは、真っ黒に日焼けしたスポーツ刈りのサッカー小僧だった当時の私の、黒歴史(恥ずかしい出来事)の一つとして、深く脳裏に刻まれることになりました。

そのお陰もあってか、30年近くたった今でも鮮明に思い浮かべることができる、祖父に関する大切な思い出の一つとなっています(今となっては良い思い出ですけどね)。

 

追悼ってなんだろう

祖父の葬儀が終わったあとは、何だか煮え切らない気持ちが残りました。

「おじいちゃんがいない」「おばあちゃんたちが寂しそう」「考えるとモヤモヤする…」という不思議な感覚でした。

誰かが「もっと○○しておけば良かった」と言っているのを聞いて、自分も考えてみました。
「自分はもっとおじいちゃんに何をすれば良かったのだろう?」かと。

悲しくて、寂しい気持ちはもちろんある。でも、小学生なのでよく理解出来ず、もどかしい。
このモヤモヤした気持ちをどうおさめれば良いかわからない・・・そんな感じでした。

そんなこともありつつ、この頃から、祖母の真似をしてお線香をあげることが多くなりました。

私がお線香をあげると、「おじいちゃんやご先祖様が喜んでいるよ。あなたを見守っているよ。」と、祖母が何度も嬉しそうに言うので。

それともう一つ、お線香をあげるついでに、仏壇にお供えされているお菓子をこっそり食べるために・・・

 

次回へ続く・・・

 

image

TOP